住職の話
令和5年11月11日 観音講勤行後
11月は天台宗では大きな行事が有ります。11月24日が中国で天台宗の礎となる中国天台宗を開かれた天台大師智顗という方の命日で、天台宗ではこの24日前後に天台会という法要を行います。甲南部では11月19日に法要を行いますが今年は嶺南寺で行います。
天台大師智顗と言う方は摩訶止観(まかしかん)という書物を書かれまして止観という修行法を後世の方に教えられているのですが、止観というのは言い方を変えれば駄弁止観と禅宗で有れば座禅であり、真言宗では阿字観と言います。言い方が変わりますが座禅を組んで周知をするときに足を組んだ時にどういう風に周知をしていくのか、それぞれのやり方が違っていて、禅宗であれば壁に向かって座っていく、そして天台宗で有れば壁に向かうのでは無くて、どちらかと言うと皆が同じ方向をなんですが、畳の1畳先を見るように座るのだと私たちは教えられた。座禅を組んでいる間、頭の中どういう思いを巡らしているのか禅宗ではよく無になる、天台宗ではどうするのか幾つか有りますが数息観と言って頭の中で数を数える。
どういう風に数を数えていくかと言うと座禅と組んでいる間、穏やかなゆっくりといた息になりますので吸って吐いて「ひとつ」、吸って吐いて「ふたつ」で自分の息の数を数えていくそういう数息観、それを繰り返すことによって無になるというよりも雑念を払うというほうが近いと思うのですが、頭の中をクリアにしていく、それが天台でいうところの止観ということになります。この数を数える以外にも、ただ吸って吐いてという息に集中するというやり方もありますが座禅を組むというのは仏教の中では一つの修行法としていろんな宗派でもやっています。
天台大師の話に戻りますが、その摩訶止観の中でこの座禅といいますがこの止観の修行法に四つの修行法、四種三昧という形で四つの修行法(常行三昧・常座三昧・半行三昧・非行非座三昧)があります。まず、常行三昧というのは、念仏をとなえながら、本尊阿弥陀仏の周囲を回り続ける修行法です。これを三か月以上繰り返す修業が比叡山にはあります。また、常座三昧というのは常に座るということで常に座禅を組むこれを百日以上繰り返すいずれの修行についても寝る時も同じ姿勢でいるということで座っているときはそのままうつらうつらと足はしびれますが眠れるのですがじゃあ立っているときはどうするかとういうとお堂の中にちょうど手すりみたいなものが平行に走っていましてそこに両手をかけてそこの手すりに体を預けながら眠る。ですから、横にはならない。そういう修業を繰り返す。
比叡山に行かれた際に西塔の釈迦堂と浄土院の中を間ちょうど西塔の駐車場から釈迦堂の方に向かっていく間に弁慶の「にない堂」という二つお堂が並んでいる。行った方はわかると思うのですが、この二つのお堂が一つ常行堂、ひとつが法華堂(常座堂)ということで、それぞれ比叡山で修業されているお坊さんがここに篭もって修業されるところとなっています。半行半座三昧と言うのは歩くのと、座るのを組み合わせる。そして、非行非座というのは歩くのでもなく座るのでもなく、と言うことで、一体どういうことをするのかと言うと逆に修業らしい修行は普段しない普段の生活の中で常に仏さんを心の中に思い描く。また、悟りに近づくための心を作っていくということを非行非座三昧ということで、四種三昧それぞれある、それぞれあるすべての精神を持ち合わせたのもが比叡山でいうところの十二念籠山行、千日回峰行であり、そして、律僧と言って浄土院に十二年間篭もる修業が有るのですが、そういう修業されている方というのはこの四種三昧の精神をもって修業をなされている。特にこの千日回峰行というのは歩いている千日間というのは朝から、朝二時に起きて身支度を整えて毎日の行に出立されるのですが中でも一番厳しいのが京都大廻りと言って一日80kmぐらい歩く行があるのですが、その行の間はほとんど寝ている時間がないと聞いております。そういった行と繰り返して十二年籠山をされた方、千日回峰行者は阿闍梨と言うように一般に呼ばれますが十二年籠山でもその浄土院に篭もられた律僧さんと呼ばれている。どちらも天台宗の中でもそう何百人もいるわけでもなくて限られた人だけがそういう行をされているということであります。なかなか同じようなことは、私たち同じ坊さんでも同じ経験というのはできないですから、ただこの四種三昧という教えの中で私たちの普段のいろいろの行動の中に生かせるということは当然ございます。やはり、なんといっても心を落ち着かせる心をいろんな日々、特に忙しいような状況になってきますと家庭内で、ひとつのことに心の中とらわれてしまう、そういう状況になると思うのですがそういった時にこそこの四種三昧ということが行という物を思い出す特に座禅の中で立ったままでもいいですし椅子に座った時でもいいですけど少し心を落ち着けながら自分の息を数えてみるひとつふたつとなかなか百とか二百とか数えるそれまでにいろんな雑念が入ってきて難しいですがそういう雑念が入ってきてもいいからそういうことを繰り返している間に心の中が穏やかになってきてそして精神が研ぎ澄まされていく。そういうことをまた繰り返しながら一つの思いにとらわれないよう自分の思いを常に俯瞰するといいますか、別の角度から見れるように心がけてそれがその止観というのにつながっていくなと思います。
令和5年5月7日 観音講勤行後
仏教用語で行雲流水、幾つも流れる水と同じ様な意味で、変幻自在、変わり身の素早いわれわれ人間は流れに沿って変幻自在に変われるのかと言うことなのですが、時には我田引水に振り回されてしまう事も有るのですが、出来ることからやっていくべきで有ると言うことです。
行雲流水に似た言葉に無為自然、有るがままと言う言葉がございますけれど、勝手気ままと受け止める人が多いようでございますが、世の中難しい言葉が飛び交って切れてしまっているところも有るかもしれませんが、やはり無責任の人がそう言う事を言う。
それはそうといたしまして、自然の木々といえども環境に合わせて自分の体を変えて、やっているわけでございます。それでも甲斐なく枯れてしまうことが有る。かといって枯らした木が責められる事は恐らく無い。それはなぜかというとそれが自然のルールで有ると思います。ルールと言うのは満場一致の物でございましてそう簡単に変わるものでは無い
山川草木悉皆成仏と申しますが自然にもやはり心が有り学ぶべき事が有る。
令和5年4月16日 観音講勤行後
仏教の言葉に夢幻泡影(むげんほうよう)がありますが、これは夢・幻・泡・影で掴みどころの無い物の象徴、この掴みどころの無い物の味わいと言うと物も有るという事で御座いまして、例えば形のあるものを曖昧にしていく。曖昧なものを形にしていく作業が有ると思いますが、みなさんご存じのピカソという画家のキュピズム、形あるものを分解して曖昧な絵にしたものでございます。それとは逆に果物・野菜等の食材を組み合わせて顔の形にする騙し絵がある。また、ルネ・マグリット(ベルギー人画家「イメージの魔術師」)がおられますが、その方は煙草パイプの絵を克明に描かれましてその下に、これは煙草パイプでは無いと書かれている。何となくユーモラスな絵ではあるのですが、こう言ったように曖昧なものと理論的もの、この二つを味わいつつ生きていきたいもので有る。
令和5年2月19日 新講員を迎えて
本日は入講式と言うことで、新講員さんについては初めての勤行大変お疲れになったと思います。
我々、凡人は何十年やってもやはり疲れるものでして・・・・
これから程よく疲れていただきたいと思う次第です。
疲れるということはそれだけエネルギーが出ている訳でございまして、それが何らかの「行」になると思います。
今月6日にトルコ・シリアで大きな地震が発生しまして、多くの方がお亡くなりになられて心痛に堪えない訳でございます。
トルコと日本は友好国ということですが、それは1890年にオスマントルコの船が日本の和歌山の東牟婁郡というところにやって来てしばらく停泊していました。
用件が済んで帰る間際に台風に遭遇、船が座礁しまして多くの方が亡くなられた。その時に地元の串本町の方々が身命を賭して救助をしたと言われています。 69名の方が救われた訳ですが、それが友好国の起源になってその関係が今も続いている訳でございます。こう言う痛ましい事故と言うのは嘆かわしい事ですけれども、それによって結ばれる絆に一縷の光明を見出したい。
こう思う次第です。
・2月3日 節分・星祭にて
本日は節分ということで豆まきをするわけですが、世の中には豆でも撒きたくなるような人がおるもので
す。
昨年のことになりますが甲賀の??クラブの機関誌を作る業者がやって参りまして協賛を募って来ました。
いろんなお寺・神社を回っていて、私としては断って悪い評判が立っても困るので甲賀の??クラブとはど
う言う意味やと思いつつ受けてしまった訳で、その結果として見事に騙されたということで反省していま
す。
身から出た錆と言うことで悔しさを押し殺していた訳です。
ただある日またもや同じ人が来て、同じことを言いだしたので信じられないと思って今は忙しいので「忙し
い」と突っぱねたらびっくりしたような顔をしてすごすごと帰っていったけど、これは塩でも撒かないけな
いかと真剣に考えたのですが、今思い返すとその方は、私の虚栄心を戒めてくださった菩薩様に違いないと
思って感じている訳です。
本当の鬼というものは自分の心の中に住んでいるものではないかと思った次第です。 合掌
・令和5年「新年のご挨拶」
春寒のみぎり、皆様におかれましては、ご健勝のこととお慶び申し上げます。
平素は、当山に対し格別のご厚情を賜りありがたく厚くお礼申し上げます。
内憂外患の中での年明けとなりましたが、仏教的に申し上げますと、平安時代から末法の時代(世
相の低迷期)に入ったとされているようです。平安時代から現代まで持ちこたえてきた我が国であ
るなら、我々のご先祖様も懸命に努力されてこられたのだなぁと、感謝の念が沸いてまいります。
「温故知新」今こそ伝統の中から何かを見出しつつ、先人の恩にわずかでも報いてまいりたく存じ上
げる所存でございます。
合掌
・令和4年12月25日
伝教大師のお言葉に『法界の衆生と同じく妙味を服せん』と言うのがありまして、これは「悟りの喜びを皆
で分かち合いましょう」と言う意味だそうです。
人と言うのは何かを成し遂げて成功させたときが喜ばしい。
逆に何かを失敗すると最も落胆する訳でございます。ですから、ある程度の何かの感受性が備わっていると
言う風に言える。
誰とでも分かり合えるかと言うと中々難しいもので、「何を考えているか分からない」「逆のことを考えて
いるのか?」「その逆を考えてくれれば元に戻るのに・・」
そうではなくて、言うことが裏腹になるだけですから、ご注意いただければと思います。
人を知る上で大切な事は、その人の考え方とか好みを知ることが重要でございますけども自分自身で分かり
やすい人間を演出するのも一つの方法かも知れません。単純かつ深淵と言うのが良いわけでありますけれど
も、落語でも同じ題目で語り手によって質が変わってくる。
人と言うのは初めから深淵であるのではなくて長年の研鑽に依ってそういうものがあるわけで、我々もそう
言ったものを目指したいと思います。
合掌