住職の話

・令和6年4月14日

4月は心機一転ということで、私も4月4日からこちら浄福寺の兼務住職に天台宗から辞令を頂きまして改めてこの観音講を務めさせていただきます。本務のお寺があって兼務という事でこれまでは特に肩書もなく法類という形で来させて頂いておりましたが、これからは住職の上に兼務という肩書は付きます。また宗教法人という括りの中では代表役員という形でこのお寺の代表ということになりますので今後ともよろしくお願いしたいと思います。

4月に入りまして急に暖かくなってまいりました。今日も所によっては夏日に様な事でございます。午後からはずいぶん暖かくなって来るんだろうなと思います。こういう中でまた午後からは改めて兼務住職に就任させて頂いたご挨拶の法要もこちらでさせて頂こうかと思っております。本当に今日はこういうおめでたい日になればと思っていたのですが、ニュースを見ますと今日はイランからイスラエルの方にミサイルや無人機が発射されたという様な事が流れておりました。大変心の痛い話題です。もしかしたらこれでまた国と国だけでなくて世界中を巻き込んでしまう様な大きな大戦のきっかけになってしまうじゃないかという事も少し恐れているところでございます。

仏教では一番最初にこの仏教を説かれたのはお釈迦さまで御座いまして、よく耳にする言葉の中に【仏の顔も三度】という言葉がございます。どこからきた言葉かと申しますと、お釈迦様がまだ悟りを開かれる前に釈迦国の皇子としてこの世に生を受け、それから皇子の位を捨て修行に励み悟りを得られていわゆる【ブッダ】となられたのですが、自分の生まれ故郷である釈迦国をコーサラ国の国王が攻めようとするのを思い止まらせようと三度までは現れて戦争を止めようと話をされた。しかし四度目にはお釈迦様は現れず釈迦国は滅ぼされた。お釈迦様は争いというものを嫌われていました。

争いとか戦とかはすべて【恨み】という思いが新たな【争い】のいつまで経っても終わらない連鎖。三度まで仏の説得を聞き入れず釈迦国は滅んでしまった。【恨み】を消し去る事は本当に人にとって難しい事ですが、それをすることが本来の【悟り】に至るということでございます。

今のご時世のイランとイスラエル、ガザ地区でのハマスがイスラエルに対して起こしたテロに対する報復として、イスラエルがハマスを殲滅しなければこの争いは止まないんだという主張のもと、どんどん【恨み】の連鎖で今の状況があるのかなと思います。ま、こういった社会のご時世を見ていますと改めてお釈迦様の教え。そしてまた伝教大師も『恨みを持って恨みに報ゆれば、恨み止まず。得を持って恨みに報ゆれば、恨みはすなわち尽く』と言われております

ここに居て我々が声を上げても中々届かない状況でありますが、どのような事態になるか分かりません

50年100年前に戻らないように今生きている私達がしっかりと2000年3000年前の人たちの教えをしっかりと受け継いでゆくことが大切なのかなと思います。

これから新ためて皆様と共にこの浄福寺をお守りし行きたいと思います。

この平和な社会の状態の中で励んでいければとあらためて思います。

本日もよくお参り頂き有難う御座いました。

令和6年3月17日        観音講勤行後

本年は3月11日が東日本大震災から13年目、仏教では14回忌という事ですが、天台宗としては13回忌の昨年大きな法要を行っておりましたが、私、今年は天台総務庁で仕事をしている関係もあって3月9日から11日にかけて岩手県と宮城県のお寺に行ってまいりました。

岩手県【中尊寺】は天台宗のお寺でも東北地方でも一番大きなお寺、特に世界遺産に指定されてからは大変多くの観光客が来ております。今年は東京国立博物館の方で【中尊寺展】をやっておりまして、そこでは中尊寺金色堂の再現をしているという事がございます。

宮城県石巻市からもう少し行った所に在る気仙沼の【観音寺】に行ってまいりました。津波前は1500程の檀家があり200から300減りましたが減っても10000を超える檀家を抱えたお寺です。

その2ヶ寺に行って法要、法話、布教を行って参りました。観音寺では総代さんと常任委員の方々にお話をさせて頂きましたが、総代だけでも20人を超える様なお寺です。私は世話役の立場でしたが内容については来月号の天台ジャーナルに載っております。

お坊さんが話をすると同時にお坊さんも震災当時の様子をお伺いしたところ。

内陸部の中尊寺、遠野市、の方ではその地域がボランティア活動の拠点なり活動されたとのことです。

この辺も東南海地震で和歌山等の沿岸部が被災した時、高速道路の通る内陸部としての利を生かして補給支援の基地となろうかと思われます。

津波の被害はかりクローズアップされがちですが、遠野市などの内陸部も被災地であるにも関わらず更に厳しい被災地の方々の支援に当たらなければならない自治体となります。自分たちの復興よりも更に厳しい状況に置かれている方々の支援をされている方々が、居られる事をこれからも各地でお話させていかなくてはいけないという思いでおります。

暖かくなりこれからは桜の季節となります。ウグイスの声も今一つだはありますが能登半島地震の被災者の方々にも思いをはせながら私達は日々のお勤めを果たしてまいりたいと思います。

令和6年2月18日 観音講勤行後

本日は2月18日ですが、2月と言うのは仏教な中では大きな記念日ではないのですが、大きな締めと言う日が有ります。それが、2月15日(涅槃会)と言う日です。仏教では4月8日の(降誕会)「お釈迦が生まれた日」花まつりと言う行事をよくやっておりますが、この日と12月8日の(成道会)です。この3つがお釈迦様に関係する日で色んな行事を各地で行っています。降誕会というのはお釈迦様が生まれた時、この様に指を上と下に(天上天下唯我独尊)、このお釈迦様の生まれた姿に甘茶をかけます。また、12月8日の成道会この日はお釈迦様が悟りを開かれた、菩提樹の木の下で悟りを開かれた。そして2月15日、涅槃会と言うのはお釈迦様がこの世で人と言う(ゴータマ・シッルダ)と言う方が亡くなられた命日、お釈迦様が亡くなれた時にお弟子さんたちに自分はこの世からこの世に似もって生まれたお魂だった言う人の器からは一旦抜けると言いますが、死と言ったものを迎える、それから自分は本来の意味の仏となる仏としてお釈迦様として別の世界で自ら得た悟りを人々に伝えていく、お釈迦様がいらっしゃる所は、霊鷲山言う山の上の頂きの方にいらっしゃるとの事です。

後に天台宗を中国で開かれた天台智者大師智顫と言う方、そして、その天台智者大師の師匠となられる南岳大師慧思と言う方、のお二人がお釈迦様の説法を霊鷲山で聞いたと、そして、南岳大師の生まれ変りと言う風に言われているのが、日本では聖徳太子が法華経の教えと言うものを取り入れられた。そして、法華経をもっと広く一般に広く伝えて行こうと言われたのが、伝教大師最澄、この方が比叡山で修行して総本山比叡山延暦寺を作り天台宗が生まれてくる訳です。2月15日お釈迦様がこの世を去られたその時、その様子が涅槃図(ネハンズ)と言うかたちで書かれています。色んなお寺に涅槃図と言うものが有りますが、お釈迦様が亡くなる時に、お坊様であったり、他の世界にいらっしゃる菩薩であったり、仏様であったり、如来様であったりとかがこのお釈迦様が亡くなる所に集まってこられる、またこれは人だけでは無くて動物であったり、また鬼(異形な姿をされたかた)その様な方たちも集まって来て、お釈迦様の涅槃の姿を見て嘆く者、喜ぶ様な姿を描く。

 何故喜ぶのか? お釈迦様にとってはまた一つの段階を経ていよいよ次の段階、仏として、釈迦如来として改め仏教を広めていく事を喜んでいるという事です。ええ~、お釈迦様が亡くなると言っても、お釈迦様は常に世界、世界と言っても私たちが暮らす世界は娑婆世界、この娑婆世界では無く別の世界に今はいらっしゃる、常にお釈迦様はいらっしゃると法華経の中で説かれておられます。

ですから、お釈迦様は亡くなった訳では無く常にいらっしゃる、別の世界にいらっしゃりますが、私たちの心の中にお釈迦様はいらっしゃいましてそれを仏教という教えの中で何千年と教えを受け継いでいるという事です。天台宗あったり、浄土宗であったり、浄土真宗あったり、各宗派が教えを受け継いでいるという事です。

また、2月15日、奇しくも講員のO様の命日いう事でございます。この日に亡くなられたという事は何かのご縁があったのかも知れません改めてご冥福をお祈り致します。拙い話ではありましたが、法話をさせて頂きました。今年は寒くなるのか、暖かくなるのか?これから全体的に暖かくなってこれから季節が変わって行きます。ただ、インフルエンザ、コロナウイルスが流行しております。お体には十分お気をつけて下さい。本日もよくお参り頂き有難う御座いました。

令和6年1月17日 観音講勤行後
 改めまして、おはようございます、初めて皆様とお念仏を唱えさせていただきました。皆様綺麗にそろって唱えて頂き、さすが深川観音講様だと思いました。

 お釈迦様の教えで諸行無常と、おっしゃっておられます。諸行(諸々に行う)無は(ない)常は(つね)皆様もご存知かと思いますが、森羅万象、いろんな事が起こるわけですが、こうやって植物も育っていたり色々我々目にするもの全て常では無いということです。常では無いという事は留まる事が無い、ずっと一緒で有るわけでは無いという事、どんどん変わってゆく、我々人間もその様であります。

 一つ一つ正月を迎え、歳をとっていく、これを積み重ねて行くと歳をとったのかと思うようになる

我々自身も変わっていく今日、この日、今の瞬間という事は二度と無い訳です。その様な事で我々はいろんな事を見ます。お正月に能登半島地震があった訳ですが、あれも一つの諸行無常になる訳です

自然のもの凄い力、我々が見えないところで色んな力が働いている。しかし我々は目に見える事は良くわかる

 感謝するものは感謝するのですが目に見えないものは何も思わない、我々こうやって生きている事は周りの空気酸素があって我々が生きている訳であります。そのことについて「感謝する」と思う事なくあたり前の事の様に思っています。しかしながら何かあった時、ふと酸素があって良かったなあと感じる事があるかもしれない。
 我々は物が見られる事で物事に執着してしまう事がある。例えば新車を買います、乗らなくても自分の手に入ればその時点で車の価値は下がってしまいます。それから車を使う事により車は、どんどん傷んでくる様に物事は変わってきます。でも人間というのは・・・
 隣の家に蔵が建ちました、そしたら自分の家には何か建ちますか❔ 腹が立つ、それはどうしてかと言うと人間は皆執着するからです。「ああ~いいなぁ、わしもあれが欲しいな」色んな事を考えてしまう、でも何れは壊れて無くなってしまうという事です。
 綺麗な女性がいます「ああ~綺麗やなあ嫁さんにしたいなあ」と思うかも知れませんが、この人も何れは年老いてしまうここに居るおばさんと同じ人なのです。だから物事に執着しない、般若心経でも説いていますが、「色即是空」色即と言うのは色、すなわち是空はから、色と言うのは物です。物には色が付いているので我々にはどの様な物かが分かる。その物に執着してはいけないという事です。何れは(空)無くなると言う事、電化製品でも最初新品でも壊れたら無くなる、だから執着はしなさんな、これが仏様の悟りの一つでもあります

 物は大切にしなくてはいけないが執着をしてはいけない、例えば高価な物を他人に貸して壊されたとしても広い心をもって、形ある物は何れか壊れると思い許してあげる、執着しない、なかなか難しい事であります。出来ませんけど皆様もその様な気持ちをもって頂ければと思います。これがお釈迦様のおっしゃる諸行無常で御座います。我々もこれから生きていく訳ですけど何かあったら、この様な事を想いだしてください。 

令和5年12月17日 観音講勤行後
 11月から12月において天台宗では祖師先得鑚仰大法記念札を送らせて頂いております。既にこのお寺にも届いております。

 もう、ご承認の方もおられるかとは思いますが、正面の上に掛かっております「傳教」の額と手元にお札があります。この「傳教」の額ですが、これは明治天皇が根本中堂に御納めなられました。根本中道の正面にこの額より二回り大きな「傳教」と言う額が掛かっておりそれのレプリカです。今回、根本中堂回廊の改修工事で出ました銅板をこの様な形にして加工したものです。これは、平成24年から始まりました、祖師仙徳鑽仰大法会元々、10年の予定で行う予定だったのですが、期間中に東日本大震災復興があったりしたとか、また熊本の地震災害が有ったりとか、後半には新型コロナウイルスの流行等々色々有りましたので結果的には11年間という長い期間での大法会と言うのは宗を挙げての行事であった。その様な中で一番大きな目玉というか、大きな事業として平成から令和にかけて根本中堂の大改修です。現在も続いております。

 今後、令和8年か9年の落成されるのではないかと思っています。この様に長い事業ではございますが、一旦、今年の3月30日を以て大法会は終わりましたので、そのお礼として今回、額と、木札が送られてきました。この木札につきましては、平成の大改修比叡山延暦寺「奉修薬師如来教蜜供佛奉興隆如意吉祥祈祷」と書いてあります。この木札ですが、材料に使われている木はサワラ材と申しまして、延暦寺の屋根がこのサワラの木が何層も何層も積み重ねられています。この様な屋根を「サワラ葺き屋根」と申します。根本中堂の屋根を守り続けて来た木を使ってこの様な形で送られてきました。祖師仙徳鑽仰大法会だけではなく、各お寺においてもこの新型コロナにて、年中行事や法事が一時期ストップしてしまいました。もともと大法会の期間中比叡山の根本中堂にございますこの「不滅の法灯」ですが、根本中堂を入られたら3つの火が灯っています。

この「不滅の法灯」を全国の天台宗神院へそれぞれお参りしながら届けて行く全国行脚が展開された。令和の2年4月から10ヶ月か1年位をかけて行う大きな企画が有ったのですが、こちらの方がコロナの、令和2年の4月から始まった緊急事態宣言が重なってしまいまして結果的には見送りとなってしまいました。この、根本中堂が落成されるあかつきには同じ様な事が行われるのではないかと思われます。その際には「不滅の法灯」がこの比叡山から日本全国、たぶん滋賀の方は最初に回るのか?最後に回るのか?出発かゴールどちらかになるのではないのかと思います。その様なかたちで回ってきます。天台宗でやると言うよりも今回は比叡山延暦寺が中心となって色んな行事を行うこととなります。

その際には皆様とともに延暦寺にお参り頂きその際には新しくなった根本中堂をご覧になって頂きたい。また、今行くのも面白いもので普段、延暦寺の下からしか見ることが出来ませんが今だったら中に入ってサワラの屋根の葺き替え工事作業が見られます。その様なかたちで延暦寺を参拝して頂くのも良いのかと思います。いずれにせよまだまだ、この「平成の大改修」令和の8年~9年位迄かかるという事で時間がかかる工事です。

もう師走という事で今年も半月という事になりました。外を見ますと、この間迄は紅葉が残っていたのがみんな散ってしまいました、もう、そろそろ冬の装いとなりました。残る期間まずは体調に気をつけて、この1年を難なく終えて下さい。また、来年は龍の年です。新たな年を迎えたいと思います。今日もお詣りいただき有難う御座いました。

令和5年11月11日 観音講勤行後
 11月は天台宗では大きな行事が有ります。11月24日が中国で天台宗の礎となる中国天台宗を開かれた天台大師智顗という方の命日で、天台宗ではこの24日前後に天台会という法要を行います。甲南部では11月19日に法要を行いますが今年は嶺南寺で行います。

天台大師智顗と言う方は摩訶止観(まかしかん)という書物を書かれまして止観という修行法を後世の方に教えられているのですが、止観というのは言い方を変えれば駄弁止観と禅宗で有れば座禅であり、真言宗では阿字観と言います。言い方が変わりますが座禅を組んで周知をするときに足を組んだ時にどういう風に周知をしていくのか、それぞれのやり方が違っていて、禅宗であれば壁に向かって座っていく、そして天台宗で有れば壁に向かうのでは無くて、どちらかと言うと皆が同じ方向をなんですが、畳の1畳先を見るように座るのだと私たちは教えられた。座禅を組んでいる間、頭の中どういう思いを巡らしているのか禅宗ではよく無になる、天台宗ではどうするのか幾つか有りますが数息観と言って頭の中で数を数える。

 どういう風に数を数えていくかと言うと座禅と組んでいる間、穏やかなゆっくりといた息になりますので吸って吐いて「ひとつ」、吸って吐いて「ふたつ」で自分の息の数を数えていくそういう数息観、それを繰り返すことによって無になるというよりも雑念を払うというほうが近いと思うのですが、頭の中をクリアにしていく、それが天台でいうところの止観ということになります。この数を数える以外にも、ただ吸って吐いてという息に集中するというやり方もありますが座禅を組むというのは仏教の中では一つの修行法としていろんな宗派でもやっています。

 天台大師の話に戻りますが、その摩訶止観の中でこの座禅といいますがこの止観の修行法に四つの修行法、四種三昧という形で四つの修行法(常行三昧・常座三昧・半行三昧・非行非座三昧)があります。まず、常行三昧というのは、念仏をとなえながら、本尊阿弥陀仏の周囲を回り続ける修行法です。これを三か月以上繰り返す修業が比叡山にはあります。また、常座三昧というのは常に座るということで常に座禅を組むこれを百日以上繰り返すいずれの修行についても寝る時も同じ姿勢でいるということで座っているときはそのままうつらうつらと足はしびれますが眠れるのですがじゃあ立っているときはどうするかとういうとお堂の中にちょうど手すりみたいなものが平行に走っていましてそこに両手をかけてそこの手すりに体を預けながら眠る。ですから、横にはならない。そういう修業を繰り返す。

 比叡山に行かれた際に西塔の釈迦堂と浄土院の中を間ちょうど西塔の駐車場から釈迦堂の方に向かっていく間に弁慶の「にない堂」という二つお堂が並んでいる。行った方はわかると思うのですが、この二つのお堂が一つ常行堂、ひとつが法華堂(常座堂)ということで、それぞれ比叡山で修業されているお坊さんがここに篭もって修業されるところとなっています。半行半座三昧と言うのは歩くのと、座るのを組み合わせる。そして、非行非座というのは歩くのでもなく座るのでもなく、と言うことで、一体どういうことをするのかと言うと逆に修業らしい修行は普段しない普段の生活の中で常に仏さんを心の中に思い描く。また、悟りに近づくための心を作っていくということを非行非座三昧ということで、四種三昧それぞれある、それぞれあるすべての精神を持ち合わせたのもが比叡山でいうところの十二念籠山行、千日回峰行であり、そして、律僧と言って浄土院に十二年間篭もる修業が有るのですが、そういう修業されている方というのはこの四種三昧の精神をもって修業をなされている。特にこの千日回峰行というのは歩いている千日間というのは朝から、朝二時に起きて身支度を整えて毎日の行に出立されるのですが中でも一番厳しいのが京都大廻りと言って一日80kmぐらい歩く行があるのですが、その行の間はほとんど寝ている時間がないと聞いております。そういった行と繰り返して十二年籠山をされた方、千日回峰行者は阿闍梨と言うように一般に呼ばれますが十二年籠山でもその浄土院に篭もられた律僧さんと呼ばれている。どちらも天台宗の中でもそう何百人もいるわけでもなくて限られた人だけがそういう行をされているということであります。なかなか同じようなことは、私たち同じ坊さんでも同じ経験というのはできないですから、ただこの四種三昧という教えの中で私たちの普段のいろいろの行動の中に生かせるということは当然ございます。やはり、なんといっても心を落ち着かせる心をいろんな日々、特に忙しいような状況になってきますと家庭内で、ひとつのことに心の中とらわれてしまう、そういう状況になると思うのですがそういった時にこそこの四種三昧ということが行という物を思い出す特に座禅の中で立ったままでもいいですし椅子に座った時でもいいですけど少し心を落ち着けながら自分の息を数えてみるひとつふたつとなかなか百とか二百とか数えるそれまでにいろんな雑念が入ってきて難しいですがそういう雑念が入ってきてもいいからそういうことを繰り返している間に心の中が穏やかになってきてそして精神が研ぎ澄まされていく。そういうことをまた繰り返しながら一つの思いにとらわれないよう自分の思いを常に俯瞰するといいますか、別の角度から見れるように心がけてそれがその止観というのにつながっていくなと思います。

令和5年5月7日 観音講勤行後 

仏教用語で行雲流水、幾つも流れる水と同じ様な意味で、変幻自在、変わり身の素早いわれわれ人間は流れに沿って変幻自在に変われるのかと言うことなのですが、時には我田引水に振り回されてしまう事も有るのですが、出来ることからやっていくべきで有ると言うことです。

行雲流水に似た言葉に無為自然、有るがままと言う言葉がございますけれど、勝手気ままと受け止める人が多いようでございますが、世の中難しい言葉が飛び交って切れてしまっているところも有るかもしれませんが、やはり無責任の人がそう言う事を言う。

それはそうといたしまして、自然の木々といえども環境に合わせて自分の体を変えて、やっているわけでございます。それでも甲斐なく枯れてしまうことが有る。かといって枯らした木が責められる事は恐らく無い。それはなぜかというとそれが自然のルールで有ると思います。ルールと言うのは満場一致の物でございましてそう簡単に変わるものでは無い

山川草木悉皆成仏と申しますが自然にもやはり心が有り学ぶべき事が有る。

令和5年4月16日 観音講勤行後

仏教の言葉に夢幻泡影(むげんほうよう)がありますが、これは夢・幻・泡・影で掴みどころの無い物の象徴、この掴みどころの無い物の味わいと言うと物も有るという事で御座いまして、例えば形のあるものを曖昧にしていく。曖昧なものを形にしていく作業が有ると思いますが、みなさんご存じのピカソという画家のキュピズム、形あるものを分解して曖昧な絵にしたものでございます。それとは逆に果物・野菜等の食材を組み合わせて顔の形にする騙し絵がある。また、ルネ・マグリット(ベルギー人画家「イメージの魔術師」)がおられますが、その方は煙草パイプの絵を克明に描かれましてその下に、これは煙草パイプでは無いと書かれている。何となくユーモラスな絵ではあるのですが、こう言ったように曖昧なものと理論的もの、この二つを味わいつつ生きていきたいもので有る。

令和5年2月19日 新講員を迎えて

本日は入講式と言うことで、新講員さんについては初めての勤行大変お疲れになったと思います。

我々、凡人は何十年やってもやはり疲れるものでして・・・・

これから程よく疲れていただきたいと思う次第です。

疲れるということはそれだけエネルギーが出ている訳でございまして、それが何らかの「行」になると思います。

 今月6日にトルコ・シリアで大きな地震が発生しまして、多くの方がお亡くなりになられて心痛に堪えない訳でございます。

トルコと日本は友好国ということですが、それは1890年にオスマントルコの船が日本の和歌山の東牟婁郡というところにやって来てしばらく停泊していました。

用件が済んで帰る間際に台風に遭遇、船が座礁しまして多くの方が亡くなられた。その時に地元の串本町の方々が身命を賭して救助をしたと言われています。 69名の方が救われた訳ですが、それが友好国の起源になってその関係が今も続いている訳でございます。こう言う痛ましい事故と言うのは嘆かわしい事ですけれども、それによって結ばれる絆に一縷の光明を見出したい。

こう思う次第です。 

・2月3日 節分・星祭にて

本日は節分ということで豆まきをするわけですが、世の中には豆でも撒きたくなるような人がおるもので 
 す。

昨年のことになりますが甲賀の??クラブの機関誌を作る業者がやって参りまして協賛を募って来ました。
 いろんなお寺・神社を回っていて、私としては断って悪い評判が立っても困るので甲賀の??クラブとはど
 う言う意味やと思いつつ受けてしまった訳で、その結果として見事に騙されたということで反省していま
 す。

身から出た錆と言うことで悔しさを押し殺していた訳です。

ただある日またもや同じ人が来て、同じことを言いだしたので信じられないと思って今は忙しいので「忙し
 い」と突っぱねたらびっくりしたような顔をしてすごすごと帰っていったけど、これは塩でも撒かないけな
 いかと真剣に考えたのですが、今思い返すとその方は、私の虚栄心を戒めてくださった菩薩様に違いないと
 思って感じている訳です。

本当の鬼というものは自分の心の中に住んでいるものではないかと思った次第です。        合掌

・令和5年「新年のご挨拶」
 春寒のみぎり、皆様におかれましては、ご健勝のこととお慶び申し上げます。

   平素は、当山に対し格別のご厚情を賜りありがたく厚くお礼申し上げます。

 内憂外患の中での年明けとなりましたが、仏教的に申し上げますと、平安時代から末法の時代(世 
 相の低迷期)に入ったとされているようです。平安時代から現代まで持ちこたえてきた我が国であ
 るなら、我々のご先祖様も懸命に努力されてこられたのだなぁと、感謝の念が沸いてまいります。

「温故知新」今こそ伝統の中から何かを見出しつつ、先人の恩にわずかでも報いてまいりたく存じ上
 げる所存でございます。        

                          合掌

令和4年12月25日

 伝教大師のお言葉に『法界の衆生と同じく妙味を服せん』と言うのがありまして、これは「悟りの喜びを皆
 で分かち合いましょう」と言う意味だそうです。

 人と言うのは何かを成し遂げて成功させたときが喜ばしい。

 逆に何かを失敗すると最も落胆する訳でございます。ですから、ある程度の何かの感受性が備わっていると
 言う風に言える。

 誰とでも分かり合えるかと言うと中々難しいもので、「何を考えているか分からない」「逆のことを考えて
 いるのか?」「その逆を考えてくれれば元に戻るのに・・」

 そうではなくて、言うことが裏腹になるだけですから、ご注意いただければと思います。

 人を知る上で大切な事は、その人の考え方とか好みを知ることが重要でございますけども自分自身で分かり
 やすい人間を演出するのも一つの方法かも知れません。単純かつ深淵と言うのが良いわけでありますけれど
 も、落語でも同じ題目で語り手によって質が変わってくる。

 人と言うのは初めから深淵であるのではなくて長年の研鑽に依ってそういうものがあるわけで、我々もそう
 言ったものを目指したいと思います。                             

       合掌